2014年4月7日月曜日

「窯を焚く意味」とは?

ここ最近は次の個展に向けて、連日の窯焚きが続いている。
その結果と言えば、連戦連敗ばかりが続いている、、、。

もちろん窯焚きは「カチマケ」では無い事はわかっているし、
期待した結果にはならずとも、想定外の焼き上がりに喜ぶことは往々にしてある。

しかし、やはり一つの完成目標を立て、それに向けて

土練り→成形→乾燥→素焼き→釉薬調合→施釉→本焼

と、ひとつひとつの行程を大切にしてじっくりと入念に進み、ようやく本焼を終えて期待を持って窯の扉を開けて結果が、不本意に終る時の「徒労」感はいまだにキツいものがある。

特にそれが自分の”自我”をデザインに詰め込んだせいで酷い結果になってしまう時(ほとんどこの原因なのですが、、、)は、もー、やるせない、、。

貴重な粘土や釉材料を無駄にし、
時間も集中力も無駄になり、
化石燃料を浪費、大気汚染を繰り返し、
自分には陶芸的センスも才能も無いから辞めた方がいいのかもと考えたり、
ボディーブローのように寄せては返す
ミゾオチの痛みに耐えるしかない。

これは大切なこと。
これを忘れては、いけないんだ。



と、しばらくはやはり苦しいのですが、

ふと外を見ると、昨日焚いて、まだ熱い窯の下に猫が集まってきてほのぼのとした顔で暖まっている。
最近空回りばかりしている窯焚きが、他者を暖めることができていて、少しでも意味があったのか、と、

ミゾオチの痛みがすこしばかり和らぎ、ほっとするのです。


猫のみなさん、ありがとう。