陶芸の学び始めの頃はとにかくロクロに慣れる為に、ぐい飲みや湯呑み、碗などを数多く制作する。1日に湯呑みを100個以上ひける様になってくるとずいぶんと楽しくなって来て、車やバイクをドライブしている様な集中と心地良い疲れを感じる様になる。腰を基点に全身の力を程よく抜いて土に触れ、右足のペダル操作で回転を調整し、なるべく少ない手数で土を薄くシャープに整えて、次々と正確に器を仕上げてゆける様になると自信が出て来て自分はロクロが上手いような気持ちになる。
そんな頃、火山巡りの旅の途中で立ち寄った萩焼の窯元で見事に自信を失う経験をした。萩焼のひとつのアイデンティティでもある「足蹴りろくろ」に触れる機会があったのだ。この経験には心底打ちのめされた。軽い気持ちで取り組んでみたものの、いっこうにカタチにならない。上のろくろの面と車軸でつながった下方には木製の重い回転盤があり、それを足裏で蹴ってまわしてろくろを回転させるのだが、これがとにかくエネルギーが要る。しかもせっかくまわしても手で土に無理な力を加えるとすぐに回転が止まってしまうのだ。あせって回そうとすればするほど身体は軸も腰の基点も失い、今度は上半身が全く定まらず土の成形どころではなくなってくる。猛ダッシュしながら静かに読書をしなければならないような無理難題具合にへとへとになり、午前中必死に取り組んで結局湯呑みが三個しかひけなかった。となりの轆轤場では地元の職人さんが涼しい顔をしてトーントーンとリズム良くろくろを蹴って、着実に制作を続けている。そして、「ああ、自分はロクロが上手いと思っていたのは幻想だったのだ、、、」と気付かされたのである。
そう、電動ロクロで大量に器をひいたところで、それは原付バイクで遠出をするようなもので、自力で成し遂げたものとは言えないのは当然である。しかし身の回りにこのような根源的な道具が存在しないとき、人間は勘違いをするのだ。考えてみれば同じ様な構図はそこかしこにあり、電動ミシンや電動ノコギリ、電気洗濯機など。日常便利に使うだけなら見過ごせても、生業として関わる以上、やはりその本質的労力と技術を知っておきたいと思う。本質的な轆轤とは人間の叡智の力であって、電気の力よりもよほど熟練を要するものだったのだ。電気の力をはなれると、無理な力を土にかけないろくろ成形が目覚めてくる。素材に無理をかけない接し方、、。ものづくりの全ての歴史には人間の叡智が宿っている、、、。
2017年10月26日木曜日
2017年1月22日日曜日
2017 吉田晴弥展 -晴のうつわ-
2017 吉田晴弥展 -晴のうつわ- のお知らせです。
1月24日(火)〜1月29日(日)10:00 - 19:00 (最終日は17:00迄)
桃林堂 青山店 港区北青山3-6-12 表参道駅B4出口
土を足で練る冷たく柔らかな感触が全身の細胞を心地よく刺激する。
うつわの造形は、なるべく手数を少なくしてふんわりと放っておく。
釉薬の調合テストはいつも手間がかかって厄介だが、結果を見ると新しい希望の光が宿っている。小さな光に集中して無言で釉掛けする。冬の冷たい釉薬の感触が背筋を伸ばす。
最近は窯を焚く回数が増えて、無駄な力が抜けた様に思う。あまり悩まずにスッキリと1300℃付近まで温度を上げて練らし、結晶を促した後、すとんと終える。
一連の作業が最近実にここちよい。
窯出しのワクワク感が戻って来た。ダメならまたやればいいだけだ。
自分が良いと感じたものは朝の太陽の光を当てて、まじまじと眺める。
別の話。
過去の失敗作を家人が掘り返してきて丁寧に水で洗い、無邪気に盛り付けを楽しんだりしている。最初は「まいったなあ〜」などと思っていたが、不意に今迄全く気がつかなかった豊かな表情をその器が見せる事がある。盲点だった。最近は釉薬そのものの美しさに惹かれるあまり、使う事を忘れていたが、陶芸の魅力は使えることだ。そして実際のところ使うには適度なスキがあった方が使い易いという。眺める事を前提とした他を受け容れない、完璧を目指すものづくりとは考え方の根底から異なっているが、どちらも同じく「美」に通じている。
ここで一度原点に還ろうと思う。
うつわは、うけいれるもの。
いきることがたのしくなるような、おおらかなうつわをつくりたい。
最近は絵を描きたい一心で制作してきたので、器の約束事に添わない、描き散らしたスケッチブックの様なまとまりのない展覧会になりそうですが、ご笑覧いただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
1月24日(火)〜1月29日(日)10:00 - 19:00 (最終日は17:00迄)
桃林堂 青山店 港区北青山3-6-12 表参道駅B4出口
土を足で練る冷たく柔らかな感触が全身の細胞を心地よく刺激する。
うつわの造形は、なるべく手数を少なくしてふんわりと放っておく。
釉薬の調合テストはいつも手間がかかって厄介だが、結果を見ると新しい希望の光が宿っている。小さな光に集中して無言で釉掛けする。冬の冷たい釉薬の感触が背筋を伸ばす。
最近は窯を焚く回数が増えて、無駄な力が抜けた様に思う。あまり悩まずにスッキリと1300℃付近まで温度を上げて練らし、結晶を促した後、すとんと終える。
一連の作業が最近実にここちよい。
窯出しのワクワク感が戻って来た。ダメならまたやればいいだけだ。
自分が良いと感じたものは朝の太陽の光を当てて、まじまじと眺める。
別の話。
過去の失敗作を家人が掘り返してきて丁寧に水で洗い、無邪気に盛り付けを楽しんだりしている。最初は「まいったなあ〜」などと思っていたが、不意に今迄全く気がつかなかった豊かな表情をその器が見せる事がある。盲点だった。最近は釉薬そのものの美しさに惹かれるあまり、使う事を忘れていたが、陶芸の魅力は使えることだ。そして実際のところ使うには適度なスキがあった方が使い易いという。眺める事を前提とした他を受け容れない、完璧を目指すものづくりとは考え方の根底から異なっているが、どちらも同じく「美」に通じている。
ここで一度原点に還ろうと思う。
うつわは、うけいれるもの。
いきることがたのしくなるような、おおらかなうつわをつくりたい。
最近は絵を描きたい一心で制作してきたので、器の約束事に添わない、描き散らしたスケッチブックの様なまとまりのない展覧会になりそうですが、ご笑覧いただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
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